妻と子供と愛情

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この理屈は、なるほど正当な筋の通った理屈です。けれども、子供に対する愛情も、すべての愛情も、すべての愛情とおなじように、けっして理屈どおりにはいかないのが原則です。子供に対する愛情を、下手な公式的な理屈で考えないこと、それどころか、愛情が自分でも気のつかないうちに、歪みやすいものであること、このふたつのことをはっきり念頭においてほしいと思います。この世には会社の仕事がいそがしいという口実のもとに子供のことをいっさいかまわぬ父親がいます。そして夫の仕事を買いかぶりすぎて、夫のこの口実を百パーセントうけいれ、子供の教育は私だけにまかされたことだと考える母親がいます。これも一種の軽症です。ところで、この軽症は下手をすると、軽症のままでいないことになりやすいのです。子供のことはいっさい妻まかせ、-こういう夫は、妻のことはいっさい子供まかせという妙な結果を生み出しやすくなりがちです。つまり、子供のことをいっさいかまわぬ夫は、やがて、妻のこともいっさいかまわぬ夫になりかねないのです。むろん、こういうぱあい、ある点では妻もいけないのです。子供のことを口実にして、夫の面倒を少しもみない、私には三人も子供がいる、とてもあの人のことまで手がまわらない、-これは賢母かもしれませんが、まさに悪妻でしょう。コミュニケーションは非常に重要ですので、これからここで出会う結婚相手とはコミュニケーションを途切れないよう気を付けましょう。

参考:結婚相談所 選び方

嫁と姑

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いまさら申しあげるまでもなく、姑と嫁はかつて一度も純粋に愛情をもち合った仲ではないのです。その上またお互いに本能的愛情を持ち合うための自然の条件lつまり血のつながりもない間柄です。それにもかかわらず、この姑と嫁は愛し合うことが望ましいとされるのです。とりわけ、その中間に立った夫の立場から、ふたりがほんとうの親子のように愛し合ってくれたらと望まれる間柄です。こう考えてきますと、嫁と姑の間ほどむずかしいものはありません。何らかの感情の摩擦、お互いの誤解、つまりトラブルの起らないのが不思議なくらいの間柄なのです。がそうかといって、このふたりの女性の間にトラブルが起ることは夫にとっていちばんやりきれないことです。ほうっておくわけにはゆかないことです。嫁に対してはこういいましょう。あなたがたもいずれは姑になる日が来るのです。いつまでも若いわけではないのです。もし私がいま姑の立場に立ったとしたら、現在の私のやり方、考え方を、いったいどういうふうに考えるだろうかIこれを、いつぺん想像のなかで描いてほしいのです。他人の立場に立って考えるのには、人間は空想力を第一の条件とするものですが、あなたがたはこの空想力をおもちでしょうか。多分もっていらっしゃると思います。あなたがたはまだ若をしい生命の持ち主なのですから、空想力をもち得ることは若さの特権なのですから。嫁も姑も、できるかぎり空想力と回想力を働かせ合って、お互いのちがった生活感覚を理解するように努力すること、それ以外に嫁と姑との間を円満にさせる方法はないと思います。自分の経験したこと、自分の考えていること、これだけを絶対的なものとして固執しないことです。これからここで、出会う結婚相手との関係が難しくなったとき、この話を思い出してください。

出典:出会い系 サクラいない

姑は嫁の年長の友だち

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それにつけても、嫁に姑のことを『お母さん』と呼ばせることが、そもそも無理な感じがします。この呼び方が双方に与える感情上の無理あるいは錯覚が、両者間のトラブルの遠因になりそうな気がするのです。かんたんに、「私の義理のお母さん」とか、「私の夫のお母さん」とかいうふうに呼び得たとしたら、私はいいんじゃないかと思うのです。言葉の問題はむずかしくデリケートです。それだけに、これはまじめに新しく考えてほしいのです。とにかく、姑は嫁の年長の友だちになればいいのだ、と思います。ただあくまで年長の友であって、『経験の上での先輩』というふうに考えないことです。私の書いたことは冷たすぎたでしょうか。冷た過ぎたとは思いません。喧嘩し、閲突し、明けてもくれてもニラミ合うよりは、始めから理性的に割りきって考えたほうがいいと思うのです。姑は嫁の立場に立って考えてやらねばいけないlよくこういうふうにいわれます。しかし、現実にこのことは、それほどやさしいことではありません。むしろ、私は世の中の姑さんたちにこう希望したいのです。息子が嫁を迎えたら、もういちどあなたの青春時代を回想してください。嫁のすることなすことを年長者の立場から考えないで、できるだけ若い人の感情で考えてやってほしいのです。それから時代が変っているということも忘れないでいただきたいのです。「私の若かったころはl」これは年寄の大へん好きな枕言葉ですが、これをやめていただきたいのです。昔はタクァンが一本二銭だったlこんなことを、あらためて考えてみたところで何にもならないじゃありませんか。昔ぱなしは、心の中にしまっておいていただけばよろしいのです。つまり、あなたの過去の経験で、嫁の生活を考えようとしないことです。出会いはここにいくらでもあるけど、出会った人といつまでも仲良くいられるかはあなた次第です。

出典元:

男女平等

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そこで、いまあげたふたつのうち、あなたはほんとにどっちを、イザというぱあいとりますか。もちろん、だから、しかたがない、あきらめてください、なんて私は毛頭いうつもりではないのです。ただ、いままで、千年も二千年も、金をもてばいつでも妻以外に女をこしらえたという男の歴史的な習性(?)が、なかなか根ぶかいものであり、だから、少しばかりの道徳的反省や、説教ぐらいではなおりそうもないということ、まず、私はこのことを申しあげたいのです。同時に、いままでの歴史は、ほとんどが、男性支配の歴史でした。女性はそこでは常に男性の支配下に立ち、はなはだしくは、男性の所有物にすぎませんでした。金持の男が一夫多妻を実行したぱあい、女性はこれに対してけっして生命がけで反抗するなどということはなかったのであります。大切なことです。もう一度はっきりいっておきます。もし人類の歴史に男女平等ということが、実現していたとすれば、おそらく一夫多妻などということは、あり得なかったろうと思われます。憲法は男女平等ということをチャンと書いております。けれども、生活のなかでは、ちっとも平等ではないのです。あなた方は、ところで、この男女平等ということを、労働賃銀の問題とか、委員会の委員の数とかいった問題における平等ということに、考えすぎていられるのではないでしょうか。貞操における男女平等lこのことをはっきりお考えになったでしょうか。男の浮気ということは、あなた方女性によって、しばしば、ある特定の男の浮気、ある浮気な男の浮気、金のある男の浮気というふうにしか考えられませんでした。金があっても浮気でない。恋愛と結婚は違うところが多いですのでここで出会った素敵なパートナーをよく見極めましょう。

出典:おすすめ 出会いサイト

理性と意志

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道徳感、もうひとつは感情ではなく、理性と意志、いいかえれば、分別によってものごとをするという道徳についての考え。第一のほうは、人間のさまざまな行為の動機に関係する問題です。そして第二のほうはそれらの行為の結果に関係する問題です。例えば、「私はそんなつもりでしたのじゃない、だけど、こういうことになってしまった」というふうに、私たちはしばしばいいます。動機はよかったのですが、結果が悪かったというわけなのです。もちろん、動機は美しい感情から出ているし、結果も悪くないというぱあいは理想的です。けれども、しばしば、このふたつのもの、動機と結果はくいちがいやすいのです。美しい愛情にかられて夫婦生活をした、ところが、欲しいと思っていなかった子供を受胎してしまった1.これも動機と結果がくいちがったぱあいのひとつでありましょう。そこで、動機のほうも理性的であるとすれば、動機と結果がくいちがう場合は、それだけ少ないことになります。いまは子供の人数からいっても、あるいはまた母体の健康からいっても、経済生活の点から考えても子供を生むときではない、lこんなふうに考えることは、ちっとも道徳的に悪いことではありません。私は思慮分別をはたらかせて行動することが、普通の場合、道徳的なことだと考えています。どんなに美しい感情でも、無分別にその感情に押し流されることは、普通の場合、よいことではないと思います。素敵な結婚相手を、見つけても結婚後に問題は発生した場合、ここに書いてあるように意外と改善に手間がかかります。気を付けましょう。

参考:結婚相談所 比較